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コラム

語学汗まみれ

第6回 中国語(台湾)──言葉を学びながらつくる繋がり

Chinese: Linkage built through learning Mandarin

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000936

2024年3月
(6,307字)

日本で学ぶ限界

中国語ははじめ、日本の大学で第二外国語として学んだ。しかし、2年間ではとても使い物にはならなかった。50名近くいた同級生のうち、実際に会話できるようになったのは瀬地山角さん(現東京大学)くらいではなかったかと思う。

1986年にアジア経済研究所に入り、台湾を研究することになって、改めて中国語を学び始めた。しかし、日本にいる3年あまりの間には大きな進歩はなかった。1年後に研究所に入ってきた丸川知雄さん(現東京大学)の方が、上達が早かったように思う。1987年に劉進慶さん(当時東京経済大学)、田村紀之さん(当時東京都立大学)と、初めて台湾に出張したときは、劉さんが必要に応じて通訳をしてくれた。1988年に小島麗逸さん(当時大東文化大学)、澤田ゆかりさん(現東京外国語大学)と香港および広東省に調査に行ったときも、昼間のヒアリングではわからないところだらけだったので、夜に澤田さんからノートを借りて補っていた。

だから、中国語が使えるようになったのは、1989年から3年間、台湾に滞在してからである。当然のことながら、滞在当初は言葉がわからないために戸惑ってばかりいた。

入寮までの悪戦苦闘──「Li Bai San」て誰?

まず苦労したのは住むところを確保することだった。同年代の友達をつくりたかったので、国立台湾大学の経済学研究所(大学院のこと)に留学することにした。アジア経済研究所の派遣制度を使えず、休職して行くことになったため、懐が厳しいという事情もあって、大学の寮に住みたいと思った。

1987年に戒厳令が解除されてから日が浅く、当時の大学には「教官」と呼ばれる軍人がいて、寮の管理もしていた。わたしが9月に入学手続きに行ったときには、すでに入寮手続きは終わっていて、部屋割りされた後だったが、教官が空いている部屋を探してくれた。部屋が見つかるまで数日、ホテルと学校の間を行ったり来たりしたが、その際に教官から度々、「libaisan」とか「libaisi」とか言われた(アルファベットは拼音ピンイン。以下、同様)。「李 (Li) なにがし」という人の名前かと思って、その人がどう関わっているのだろうかと考えながら、わかったふりをして「うんうん」と返事をしていた。無事、部屋は見つかったのだが、それから少し経ってから、中国語では曜日のことを「星期(xingqi)」というが、「礼拝(libai)」ともいうと、大学時代の教科書の隅に書いてあったことを思い出した。「libaisan」は「礼拝三」、すなわち「水曜日」であった。教官は次は水曜日に来いとか言っていたわけだが、毎日のようにもう部屋が見つかったのではないかと思って荷物を抱えながら学校まで行き、教官を訪ね、またすごすごと荷物を持ってホテルに帰っていた。
間抜けな話だし、教官にも迷惑をかけたと思う。

学校で、寮で、重ねた失敗の数々

講義も中国語で行われた。講義の内容は教科書を読めばなんとかなるが(なお、教材の大部分は英語)、絶対、聞き逃してはいけないのが提出物とその期限だった。ほぼ毎週、出された宿題については、寮に住む同級生にも確認して万全を期したが、それでも一度、大きな失敗をしたことがある。朱敬一先生の「個體經濟學(ミクロ経済学)」では、学期のはじめに学期末にタームペーパーを出すように言われていたが、それを聞き漏らしていた。気づいたのは提出の一週間前だった。慌てて書いたが、当然のことながら出来は悪かった。本来、ボーナスポイントであったはずが、あまり加点にはならず、必修科目であったので、落第しないかと心配したが、真面目に宿題に取り組んだおかげか、何とか単位を落とさずに済み、ほっとした。

寮生活も当初は言葉がわからないために、ルームメイトらとすれ違うことが多かった。はじめにいた421号室のルームメイトから、しばしば「宵夜」と言われた。宵のことかと思って、「今晩は……」とかいい加減な返事をしていたが、後になって夜食のことだとわかった。つまり、彼は親切に夜食に行こうと誘ってくれていたのだが、結果的に断ってしまっていたのだった。悪いことをしたと思う。もっともあの頃は宿題に追われて、あまり余裕もなかったのだが。

ふと上達に気づく──ある夜、二段ベッド上段のルームメイトとの会話

それから間もなく、隣の422号室のKWさんに誘われて、そちらに移った。KWさんは法学研究所の院生だった。台湾の人は親切な人ばかりだったが、まだ不慣れなことが多かった時期に助けてくれたKWさんにはとりわけ感謝している。旧正月には寮の食堂も、周囲の飲食店も閉まるので、帰省する友人の実家に行くことが多かったが、KWさんの台南県白河鎮(現台南市白河区)の家にもお世話になった。

KWさんとはいろいろな話をした。民主化が進み始めた時期だったから、政治の話題が多かったと思う。やはりはじめはたどたどしい会話しかできなかったが、寮に住み始めて確か3カ月くらい経ったある晩、部屋の明かりを消して2段ベッドの下段で横になりながら、上段にいるKWさんと話をしていると、それまでできなかったような複雑な議論をできるようになっていた。けっこう長い時間、話をしていたと思うが、それも苦にならなかった。あのとき、「ああ、自分の中国語はいつの間にかここまで使えるようになっていたんだな」と実感し、嬉しい気持ちでいっぱいになったことを今でも鮮明に覚えている。

KWさんが修士課程を終えて寮を離れると、同じ法学研究所のSCさんが入れ替わりで入室してきた。SCさんもKWさんと同じくらい親切だった。次の年の旧正月には、SCさんの高雄市街の実家に泊めてもらっている。SCさんには中国語で書いた修士論文の添削もしてもらった。

恐らく3年間で最も話をしたのはKWさんとSCさんだっただろう。つまり、中国語を最も学んだのも二人からである。

写真1 3年間暮らした台大男四舎

写真1 3年間暮らした台大男四舎
台湾と中国大陸の違い

台湾で「国語」と呼ばれる公用語の中国語は、中国の「普通話」と基本的に同じものである。しかし、日本で先に「普通話」を習ってから台湾に行くと、微妙に違っていることにしばしば気づかされた。よくいわれるのは訛りのようなものだ。台湾では巻き舌をあまり巻かないとか、F音が弱いとか、軽声を使わないとか等々である。台湾で、特に中南部出身者の多い学生寮で習得したわたしの中国語は、かなり台湾ぽい。KWさんも、SCさんも南部出身だった。

使う言葉にも違いがある。「わかる」を意味する「明白」は中国でよく使われるが、台湾ではほとんど使われない。中国で「よろしい」を意味する「行」も、台湾で聞くことはまずない。中国で「行」と言われると、かなり上から目線で言われているように感じる。台湾ならば「可以」か「好」だろう。「よいでしょう」「よいですよ」といった、柔らかい感じがする。一方、台湾で女性に対して、「さん」という意味で日常的に使う「小姐」は、中国ではよい意味では使われない。うっかり中国の女性に使うと怪訝な顔をされ、慌てて謝罪と訂正をすることになる。

日常的に使う言葉以外でも、例えば集積回路(integrated circuit: IC)は、中国では「集成電路」だが、台湾では「積体電路」を使うことが多い。熊本にICの工場を建設している話題のTSMC (Taiwan Semiconductor Manufacturing Co. Ltd)の中国語名も「台湾積体電路製造股份有限公司」である。2010年に台湾と中国で結ばれたECFA (Economic Cooperation Framework Agreement) は、当時の中台間の関係改善を象徴しているが、「framework」は中国では「框架」、台湾では「架構」と、中国語の表記が異なっているのはおもしろい。

発音の違いから生まれた落とし穴──「十」と「十一」は要注意

正規の発音、特に声調という音の高低、昇降、長短が異なっている場合もある。声調は4種類ある。「企(qi)」は中国ならば三声だが、台湾では四声である。「期(qi)」は中国ならば一声だが、台湾では二声である。「法(fa)」は「法律」などに用いる場合は同じ三声だが、フランスを指す場合、台湾では四声になる。

発音の表し方も異なる。中国ではアルファベットを使った漢語拼音(ピンイン)を用いるが、台湾では主に中華民国が制定した発音記号である注音符号(いわゆる「ボポモホ」)を使う。その違いが本来同じであるはずの発音にも影響しているようにみえる。例えば「秋」は漢語拼音ならば「qiu」だが、注音符号では「q」を表す「く」に加えて、「i」を表す「丨」と「ou」を表す「又」を組み合わせて「く丨又」となる。漢語拼音でも「i」と「u」の間に軽く「o」の音を入れると教えられるのだが、台湾の方が「o」の音が強いように思う。

この違いのために失敗したこともある。「十」は漢語拼音ならば「shi」だが、注音符号ならば「尸」であり、「i」の音は入れない。日本では漢語拼音で習っていたため、わたしはどうしても「i」の音を入れがちだった。しかし、そうすると「十一」との区別が曖昧になってしまうのである。「一(yi)」の発音は注音符号では「丨」であり、したがって「十一」は「尸丨」となるからである。一度、待ち合わせの時間が10時か11時かで行き違いがあり、友達と会えなかったことがある。それ以来、「十」と「十一」の区別には注意し、大事なことでは「ten or eleven?」ときいて確認している。

なお、台湾では「国語」のほかに台湾語(「閩南語」「福佬語」とも呼ばれる)、客家語といった中国語の方言、さらに先住民族(台湾では「原住民族」という)の各種言語が使われている。このうち台湾語は勉強してみたが、ほとんどものにならなかった。使い道としては、「台湾語はできるの?」ときかれて、台湾語で「ほんのちょっとだけ」と答えて、場を和ませる程度である。

今に続く先生や友人とのつながり

わたしの中国語の学習にとって、最も重要な場所は学校と学生寮だった。そこで先生、同級生、ルームメイトと会話することで中国語を習得していった。それは同時に、彼女/彼らとの関係を構築していくことにもなった。こうした関係はその後の研究に大いに役立っている。

台湾の最高学府である国立台湾大学からは、多くの教員が政府の高官に就いた。「總體經濟學(マクロ経済学)」の陳師孟先生は国民党幹部の家に生まれたが、ちょうどわたしが台湾に留学していた頃、民主化の潮流のなかで国民党政権への批判を強め、最後には民進党に転じ、許信良主席のもとで民進党の秘書長(幹事長に相当)に就いたり、台北市長となった陳水扁のもとで副市長をつとめたり、陳の総統当選後は中央銀行副総裁や総統府秘書長に任じられたりした。「工業經濟學」の薛琦先生は、李登輝政権の経済建設委員会(経済政策を所管する部門)の副主任委員(副大臣に相当)や、馬英九政権の政務委員(無任所の大臣)を歴任した。わたしの留学時代に学部長だった陳博志先生は、陳水扁政権で経済建設委員会の主任委員(大臣に相当)に就任している。彼らからは、政府の考え方について直にきくことができた。

経済学研究所の同級生のなかでは、寮で隣の423号室に住んでいたLHさんは、台湾経済研究院という民間シンクタンクの副院長になっていて、今に至るまで仕事上の関係が続いている。彼が用意したプログラムによって、わたしが台湾に3カ月あまり滞在したこともあるし、わたしの方でLHさんを日本に招聘して、アジア経済研究所の講演会で話をしてもらったこともある。423号室にはHTさんとCCさんという同級生もいて、コロナウイルスの流行によって中断するまで、わたしが台湾に行ったときに、LHさんと4人で時々、会っていた。HTさんは台中の私立大学で教えていて、2017年に若者の中国観について調査した際には、学生を紹介してもらったりもした。

写真2 台北市中心部の徐州路にあった台大経済学研究所。

写真2 台北市中心部の徐州路にあった台大経済学研究所。現在は台北市東南にある
メインキャンパスに移転し、徐州路のキャンパスは使われていない。
言葉を学び、人と出会い、台湾を知る

学校と寮の日常生活のなかで学習するだけではなく、中国語の学校にも通った。WHさんという、台北県(現新北市)にある私立大学の中国史の修士課程に通う学生と一対一のレッスンだった。最初の教材は『來台北學中文』だった。なかなかよくできた中級の教科書だったと思う。SF小説の『棋王』や、蕭新煌さんの『我們只有一個台灣』の一部も使った。

WHさんは外省人(1945年以降に中国大陸から台湾に移住した人およびその子孫)の父親を持ち、確か桃園県(現桃園市)の眷村(台湾に移住した軍人が集住する集落)育ちだったと思う。そのせいか、かなり強固な国民党支持者だった。台湾の民主化についても、民進党よりも当時、国民党の中堅ないし若手のなかで頭角を現していた宋楚瑜や馬英九に期待していた。まったくの偶然だったが、アメリカ人の同級生のリックさんも彼女から中国語を学んでいた。WHさんとリックさんは民主化や国民党をめぐって、時々、論争をしていたらしい。わたしは論争をすることはなかったが、WHさんからは周囲の同級生やルームメイトとは違った見方を知ることができ、台湾に対する理解を深めるうえでとても役に立った。そんな彼女も、民主化のなかで台湾史研究がブームになると、けっこう流行に乗っかっていったのは興味深かった。

中国語の第3の学び方として交換学習があった。中国語を教えてもらう代わりに、日本語を教えるという方法である。どうして知り合ったのか思い出せないのだが、工業技術研究院(以下、工研院)で働いていたCMさんと交換学習をすることになった。CMさんは早稲田大学で修士号を取得していたので、かなり日本語ができたが、交換学習をすることになったのは、彼女が台湾に戻ってからは使う機会が限られているので忘れないようにしたいという理由だったと思う。交換学習といっても、何か教材を使って教えあった記憶はない。もっぱら雑談をしていたような気がする。

CMさんには、彼女の後の配偶者を含めて公私の友人を紹介してもらった。そのなかに工研院の同僚のLCさんがいた。LCさんは日本人の母親を持ち、日本に留学もし、日本語がとても流暢だったので、LCさんとは通常、日本語で会話をしていたと思う。

1999年以降、半導体産業を研究するにあたって、LCさんにはずいぶんと助けてもらうことになった。工研院は台湾半導体産業の生みの親である。UMC(聯華電子)も、TSMCも、工研院が1970年代半ばから始めた一連の技術移転および技術開発のプロジェクトを母体としていた。LCさん自身は半導体のプロジェクトに参加していたわけではなかったものの、参加者の多くは知り合いであった。LCさんから何人かの参加者を紹介してもらったが、特に第1期のプロジェクトに参加し、工研院の院長となっていた史欽泰さん、UMCの設立に参加し、その幹部となった劉英達さんにインタビューできたことは、その後の研究を進めるうえで決定的に重要であった。また、LCさんからお借りした工研院電子工業研究所の団体史『也有風雨也有晴』は、研究の基礎となった。こうしてLCさんの助力を得ながら着手した研究が、2007年に岩波書店から刊行される『台湾ハイテク産業の生成と発展』に結実することになったのである。

今、振り返ると、中国語の学習と研究は分かち難く結びついていたと思う。ともに大本にあったのは台湾を理解したいという思いであった。

【好きなフレーズ】

一屑仔爾爾/一點點仔

「ほんのちょっとだけ」

なにかかっこいいフレーズが思い浮かぶとよかったのですが……。本文で述べたように、これは「国語」ではなく、台湾語です。「チッスラニアニア」「チッティアムティアマ」と、発音が可愛いところが気に入っています。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • すべて筆者撮影(2023年9月)
参考文献
  • 佐藤幸人(2007)『台湾ハイテク産業の生成と発展』岩波書店。
  • 佐藤幸人(2017)「台大男四舎422室の3年間」「日本台湾学会ニュースレター」第32号、1-3ページ。
  • 蘇立瑩(1994)『也有風雨也有晴──電子所二十年的軌跡──』竹東:工業技術研究院電子工業研究所。
著者プロフィール

佐藤幸人(さとうゆきひと) アジア経済研究所新領域研究センター。経済学博士。主に台湾および東アジアの産業発展や台湾の経済と社会の関係を研究。主な著作として、『台湾ハイテク産業の生成と発展』(岩波書店、2007年)、『東アジアの人文・社会科学における研究評価──制度とその変化──』(編著、アジア経済研究所 2020年)など。